信じるちから

Hat Cat 2014 ©︎ Hanae Tanazawa
Hat Cat 2014 ©︎ Hanae Tanazawa

 

またほったらかしが続いていました、すみません。

 

ここだけでなく、私にはマメさがかけるところがあり、「返信が遅れてすみません」を書くのも、それに続く言い訳を考えるのも常々煩わしいことだから謝罪から始まるメールを無くそうと思いはするのですが、メールチェック後一旦置いてしまう癖があります(仕事メールはちゃんとできるのですが!)。何でしょうね、読んだ後、「ふむふむ、オッケー!」みたいな、心の相槌が相手にも届いてるだろう的な、もはや22世紀的とでもいうやつ・・・。笑 あとは、返信前に一度温めて失言がないように注意している節もあります。私としては全く悪気はないのですが、相手方にとっては心配になったり、嫌な気持ちになったりしますよね・・・これはほんと、がんばらなければな課題です。

 

それとは別に、なんというか、不思議な「逃げ」の本能みたいなのが人一倍強いらしく、自分が今どこで何をしているか、あまり具体的に知られたくないところがあります。GPS機能とか、既読機能とか、SNSのタグ付けとか・・・ほんと、避けて生きたいのです。もちろん色々役に立つのだろうけども、なんというか、もうちょっと「あいつどこかにいるんだろうな」っていう「感覚」を信じてもらえたらなって思うのです。

 

多分ですが、子ども時代、遊び場が山だったことが大きいと思います。その時代は子どもはもちろん大人だって誰一人携帯電話なんて持ってませんから、子どもたちだけで山の中に遊びに行くなんて、親は相当、私たちのことも、私たちを守ってくれている神様のことも、信じていたのだと思います。時計も持たずに、日が暮れてお腹が空いたら帰る時間だと決まっていました。あの、ただ漠然と信じてもらっていた心地よい感覚を覚えているから、今だってそれを求めてしまうのかもしれないです。

 

 

それと、性格が猫なんだと思います。もう本当に、この世の動物で何にでもなれるなら、猫になりたい!しかも、家猫とノラ猫のちょうど中間くらい、まさに家ノラ猫(勝手に命名)に。もしも一日だけなれるものなら、私は誰から見ても人間とは疑われない、素晴らしい猫パフォーマンスができると自負しています(←役に立たない自負・・・)。

 

 

思えば、猫は、世の中を信じている。この世が今日も平和であることや、今日も自分を養ってくれる人がいること。自分が愛されていることも。

 

屋根の上や道路の真ん中で堂々と寝っ転がれるなんて、周りを信頼していなきゃできないこと。自己表現に素直で、人の目を気にせず、お腹が空いたら堂々と媚を売りに行く。私にとって猫(とりわけ家ノラ猫)は、自由、愛(嬌)、勇気の象徴。・・・そんな家ノラ猫に、今だって、いつだって、私はナリタイ・・・

 

 

 

ということで、これからも気ままなおつきあいをお願いいたします。

 

 

・・・という無理やりな言い訳でした!

 

 

 

一度可愛いのがいたとなると、何年経ってもその場所を通り過ぎる時「アイツいないかな」ってキョロキョロしてしまう。この子もそんな子。こんなに可愛い顔して人の手の届くところでスヤスヤ(落ちそうになるほど)眠れるんだから、よほど周りを信じているんだろうね。

羨ましいな。

 

 

私にとって、愛・勇気・自由の象徴だった愛猫、Buddy(バディ)。

 

顔に泥や傷がついているのは勇敢な証拠。普段は猫被り(?笑)なおとぼけさんだけど、正面から喧嘩できるたくましさも。

 

おそらく家猫だったところからノラになったのを私が拾ったから、そのままの自由な猫でいてもらうために首輪はつけずにいた。でも、いつもついてきてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

彼はいつだって信じていた。

 

 

 

 

ご飯が与えられることを・・・。

 

 

 

 

与えられることを・・・。

 

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