ここ最近、マレーシアの姉夫婦に頼まれて取り組んでいた作品が悲しいくらいにどうやっても出てきてくれなくて、イライラも不安もMAX状態の1ヶ月が続いた。描いては塗り消し、描いては塗り消し、もうあと1日しか猶予がないという時に、木製パネルにアクリルで描くことをやめて紙にガッシュとパステルで描き始めたら、ようやくこれならと思うものが出来た。まだ本人たちに届いていないので実際の作品は後日改めてお見せできればと思いますが、改めて、私はpainter(絵の具で描く絵描き)ではなくて紙媒体にドライメディアの人間なんだと実感。
ストックしてある紙を出す時に、学生時代のいろんなスケッチもついでに出てきた。上もその一つで、多分ピカソの顔。小さなものだけど、今見れば悪くない線もある(から取っておいたのだろう)。
他にも未熟者なりに苦戦しているスケッチがたくさん。
「老婆の横顔」シリーズのためのスケッチ。
大学時代に一枚の老婆の写真からインスピレーションを受けて、山ほど描いたシリーズものの、下手なものたち。
この1個目のなんて、今見ればちょっと別の味わいもある(?)。
これは日本に帰ってきて割とすぐの頃のものだと思うけど、
版画用インクでのプリント技法(遊び)にはまっていた時のもの。
何考えていたんだろうなって思う線がいっぱい。
でもなんとかして何かを掴もうとしていたのはわかる・・・。
作品が全然出てきてくれない時にこんな過去のスケッチ達に出くわして、相変わらず進歩してない自分に苦笑いするのと同時に、なんだか昔の自分に励まされたのも確かだった。なんとか渡せる作品が出てきてくれて、昨日は1ヶ月ぶりに安心して眠ったような気がする。
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タイトルについて。
自分が絵を描くようになるまで全然わからなかったけど、ピカソはやっぱりすごくて、ピカソの才能を十分の一ずつ、10人の人に分け与えても、10人それぞれがそれなりにいい芸術家になるほどだと、勝手ながら思っている。ピカソの作品の前では、恍惚感やら憧れやら、嫉妬心やら敗北感やらで心を大いにかき乱され、その複雑な感情を表現する唯一の手段としては、最後にため息一つ出すしか他ないのである・・・。平面から立体まで、どんな媒体でも自分のものに使いこなし(もちろんその間の苦悩や好奇心も重々感じつつ、それがまたピカソ作品の大きな魅力でもあり)、サインなどなくても明らかにピカソはピカソで、どの作品にも新しい試みと遊びがあり、同じことをやっているようで二度と同じ作品はない・・・。
いつも思うことだけれど、一つの才能と、その才能が発揮される対象物が出会うということは必然だろうか。話が少しずれるけど、例えば今話題の大谷翔平くん・・・彼はきっとピカソと同じタイプの人間で、10人で割ったとしてもそれなりの野球人を10人作り出せるのかもしれないけど、もしも仮に大谷くんが若いうちに野球に出逢わないでいたら、それ以外の分野でもやはり何かをなす人になったのだろうか。
ある時は、シリア難民のニュースを見ながら思っていた。外見上は皆共通して同じ難民に見えるけど・・・この中にどれだけの芸術家がいるのだろう、と。どれだけの、一流のスポーツ選手や、料理人や、俳優や、学者や、ビジネスマンがいるのだろう。また、北朝鮮の芸術団と言われる人たちは、彼らの芸術的表現に、本当に心の底から納得しているのだろうか。
才能と才能の対象物がぶつかるのは、当たり前なことではない。
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創作に苦戦したばかりの自分自身に戻る。
似ているようだけど、絵の具と筆だけを与えられていたら、私はアーティストにはならなかったと思う。ドローイングだけでも、自分自身の表現を見つけきれていなかったかもしれない。折り紙の色に魅了されてコラージュ作品を作るようになってようやく自分と表せられるような、そんな可能性を感じ始めたけれど・・・。
そうやって考え進めると、自分はきちんと出くわすべき、与えられた才能を発揮する対象物に出逢えているのだろうかとか、そもそもこの方向で大丈夫なのだろうかと、ふと疑問に思ったりする。