お金シリーズ、長文です!
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あるところで、子どもたちがおもちゃの100円玉でお金稼ぎごっこをしていました。グループのリーダーはスネ夫くんで、他にはのび太くんやしずかちゃん、3才のハナエも一緒になって遊んでいました。最初全然お金を持っていなかったスネ夫たちは、色んな工夫をしておもちゃの100円玉をどんどん増やし、ジャラジャラとたくさん持ってお金持ちになりました。
あるとき、スネ夫たちにとって主要な取引相手の大きくて力強いジャイアンに呼び出されました。ジャイアンはおもむろに、スネ夫たちが持っていた100円玉を全て取り上げ、真ん中に一つ穴パンチで無理やりに穴を開けてしまいました!「ふん、生意気なスネ夫め。こんなものはこれから100円の価値はない。50円玉としてなら取引してあげよう。」そうして無理やりに全てのお金の価値を半分に下げてしまいました。ジャイアンが怖いスネ夫たちは文句も言えず、渋々、元々100円だったものを50円玉として取引ごっごをするようになりました。でもスネ夫たちは遊びにも関わらず勤勉だったので、半分になってしまったお金の総額を取り戻すために、身をやつすまで働き、結局何倍もの50円玉を稼いだので、しばらくするとまたジャイアンよりも大金持ちになりましたとさ。チャンチャン。
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というのが、ざっくりと日本がこの40年弱で追ってきた歴史の意訳です。
人のためというよりも、ここまで砕かないと解釈できないのです、自分が。笑
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具体的に何が起こったかというと、日本は戦後物資が不足し、戦後賠償の支払いなどもありマイナスからの復興を余儀なくされました。売るものなどなかったのでまず外貨を借りて資源を輸入し、それらを加工したものを輸出してどんどんと外貨を稼いでいきました。物がない時代でしたので作ればよく売れ、景気はどんどんよくなっていきました。
敗戦国・日本があまりの勢いで上り調子になっていったので、ジャイアン大国アメリカは困り始めました。スネ夫たちの上質な日本製品が、アメリカ国内でジャンジャン売れてしまうのです。困ったアメリカは、1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテルで行われたG5の会議で、「アメリカの貿易赤字と、日本と西ドイツ(当時)の貿易黒字を是正するためのドル安誘導を行う合意」(大西, pp. 33)に持ち込みました。これをプラザ合意と言います。ずばり、ジャイアンがスネ夫たちに一方的に下した「100円玉だったものを50円玉としてなら取引してあげる」合意です(これは完全に私のオリジナルのため、きっとどこにもない雑な表現です)。当時230円だったドル/円のレートは2年間の間に120円まで下落しました。ジャイアンはスネ夫たちにわかりやすく、「輸出を減らせ、輸入を増やせ、アメリカ製品を買え」と伝えてきたのです(大西, p.33)。
勤勉なスネ夫たちも、一時はジャイアンに言われた通りにお金を使った時代がありました。1988年-90年のバブル期です。日本人は戦後最大に豊かさを謳歌し、激しく踊ったり(笑)、札束を撒き散らして国内外で豪遊したりしていました。大西いわく、「バブル時期の政策自体はそれほど間違ってい」ませんでした(p.35)。しかしその後バブルが崩壊し、日本はデフレ経済に突入し、全てが負のスパイラルへと陥っていきました。
94年、バブルが崩壊すると、日本は再びGDPを稼ぐために、それまでやってきた成功体験を踏襲するかたちで、ありとあらゆるところで無理をして、コストカットすることで黒字を稼ぎ続けました。同じ費用で作ってもそれまでの半値でしか売れなくなった場合、その穴埋めのためにカットされたのは人々の売上や給料でした。そうやって多くの労働者たちは、長時間労働やサービス残業を強いられ、無償労働で黒字を稼ぐ代わりに家族との時間やゆとりある暮らしを失い、本当の意味での豊かさを実感することができなくなっていったのです。(#007でハナエのお父さんたちが一生懸命働いても豊かさを感じられなかったというのはこのことです。)
通常はどこでも経済発展を遂げると物価や給料は自ずと上がっていくものですが(昔の話で初任給5千円とか聞いて少な!って思ったことあると思いますが)、90年代頃からは大卒の初任給が20万円前後と横ばいで、最近でもよく取り沙汰される「給料が上がらない問題」の明確な原因はここにあると言えます。
出典:https://www.nippon.com/ja/features/h00293/
*最新の統計では平均22万円程度:https://news.yahoo.co.jp/articles/ce31efe970ddb8366e1c6c949f5c59ad89106bd3?page=1
・・・この苦しい時代を考えるとき、私は大好きな山田洋次監督の『男はつらいよ』に出てくる、とらやの隣で小さな印刷会社を営むタコ社長のことを思い出します。のらりくらりとその日暮らしを続け、時々ふらっと帰ってくる寅さんとタコ社長はよくつかみ合いのケンカするのですが、「寅なんかに零細企業の社長の苦しさがわかってたまるかっ!」と半泣きで叫ぶのはタコ社長お決まりの名台詞。いつだって借金苦や首をくくることばかりの愚痴を垂れ、ため息混じりに額の汗拭きうなだれるタコ社長は、私にとってまさにこの時代を象徴するキャラクターの一人です(頼むからわかる人が一人でもいてください(祈))。
そう考えると、あのタコ社長を苦しめていた諸悪の根源は、もしかしたらこの1985年のプラザ合意だったかもしれないとも言えるのです。
参考図書:大西つねき著『私が総理大臣ならこうする』白順社, 2019 第2刷, pp. 28-38