言葉は網だな、と思う。
私が今こうして書き起こしている文章にも独特の形をした網目のような余白があり、それぞれの余白が塗りつぶされずに存在するからこそ、書いたものが読み手に伝わる。
*
同じ網にも、細かい網と荒い網がある。
たまたま同時期に、谷崎潤一郎と川端康成を読んでいたことがあり、谷崎の文章は細かい網目、川端の文章は荒い網目と思った。
谷崎は描きたいもの全てを文字にするかの如く、着物の柄から表情一つまで細やかに描写するので文字量が多くて読むのが大変な代わりに、脳内で映し出される映像は鮮明でまるで映画を観ているかのよう。
対象的に、川端はあまり言葉を消費せず読者の想像に拠る部分が大きいので、私はしばしば同じところに戻ってその表現の意味を考えさせられることがあった。
後々この二人が日本人初のノーベル文学賞の最終候補者として選ばれていたと知り、面白い対比だと感じた記憶がある。
網目の大きいものは軽やかに大物の魚を狙う。大局が掴めればいいというか、大きく自由な余白を読み手に残す。俳句はその究極、現代ではX(旧ツイッター)。余白が大きいことはまた誤解も生じやすい。
網目の細かいものは、情報をたくさん正確に伝えられる反面、容量が重たいのでそもそもアプローチしてもらえない可能性大。新聞記事とか、ドフトエフスキーとか、私の文章もこちら側(?)。
どちらがいい悪いではなくて、使いやすい方を使えばいい。言語表現が悪いと言ってるわけでもないし、言葉の明解さを求めてしまうときは正直多々ある。
***
網は魚や蝶々を上手に捕まえるけど、水や空気は取り逃がしてしまう。
言語表現の目指すところが「行間」であることはあっても、網そのものが水や空気の何たるかを表すには限界がある。
網をくぐり抜ける水や空気に当たるもの、それが私にとっては面や空間に放たれる絵や造形物、音楽、踊りなどの非言語表現(non-verbal expression) 。視覚言語(visual language)とも言われるこれらは、言葉を用いることはあっても、必ずしも必要としない。
"visual language"と言う言葉を大学のアートクラスで聞くようになった時、まさに自分に必要なもの、と感じる経験を何度もした。どれだけ事前に英語を勉強しても、いきなり海外に行ってしゃべられるようになる訳ではなく、まるで赤ん坊のように頭の中に溢れる言葉が口から出せないことが最初は顕著に続き、卒業間近の4年目でも克服することはなかった。言葉の不十分を埋めるように、私は視覚言語を求めたのかもしれない。
物理的に捕まえられるものだけではなくて、空気のように見えないけれどあるもの、それに心震えたり、表現したくなる欲求が人間にはあるのだと思う。
*
「言葉」という「網目」をするすると抜け落ちる、水のような、空気のような、色や光、音、振動を受けて、せいぜい「言葉にできない」と発し、余白のような無限の余韻を感じるなら、それを味わうことが全て。