一年前の今日は愛猫ミーが亡くなった日でした。
今月は度々ミーのことを思い出しながら過ごしていました。
今でも彼を撫でた時の柔らかい毛並みと痩せて骨ばった身体を手のひらで思い出すことができます。
甘えん坊でベタベタ触りたがりの私を許してくれたミー。
本当に優しい猫でした。
できるものならまた会ってもう一度抱きしめたい。
Hope he's resting in peace.
同じ一年前、山中湖の山中でペンキにまみれていた愛は、多少涼しさの増した(それでも相変わらず暑いですね、)9月ごろから少しずつ触らせてくれるようになり、最近は発情期なのか?上目遣いで撫でてくれアピールを何度もしてくるようになりました。しかし警戒心は相変わらずで、こちらが何か(わからぬが)やらかせば瞬時に引っ掻かれたり噛みつかれたりするので、私の両腕は傷だらけがデフォルトになりました(そこまで酷くないけど)。
猫って人間がお風呂に入ってるとよく浴室に入りたがるんですが、それは飼い主が溺れてるんじゃないかと思って心配してるためらしいのです(本当?)。愛ちゃんは浴室までは来ないけど、私がお風呂に入ってる間は扉の外で待つこともあり、出ると何事もなかったかのようにすぐどこか行っちゃうんだけど、一応こんな私でも心配してくれてるんだな〜って、ツンデレな分だけ嬉しかったりします。愛の楽しみ方はそんな感じ。
時間がかかるけど、いつかへそ天させてやるぞ♡
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ミーも愛も、英語の発音表記にすると"Me"と”I"なのに後々気づいて、私は無意識のうちにこの猫たちに自己投影でもしてたのかしらと思った次第。
そういえば一番最初に飼った猫の名前は"Buddy"(=相棒)で、究極自分のベストフレンドは自分だと思っているから、これまたなんだか辻褄が合う。
前に、なんで猫が好きかわかったって書いてそのままだったけど、
つまり猫好きな自分は、猫抜きの自分よりも、幾ばくか自分が好きな人間になりうるのかもしれない、と思えたから。好きなものに緩んだときの人間の表情は、それ以外のときよりも少しは魅力がこぼれるもの、になるでしょうか・・・。
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さて、私が超天才技術者であったなら、人間を観察するためのスパイは絶対に猫型にするであろうと思っている。目を光らせても変じゃないし、縦横無尽に駆け回れる体は時に水のようになめらか。俊敏でもいいし、ずっこけても誤魔化しが効く。屋根の上でも路上でも、布団の中に潜り込もうとも怪しまれないどころか歓迎される超高機能存在。
私にとって地球一憧れる存在、それが猫なのです・・・。