
仕事として何かを作らなければならないとき、そしてそれが滞ってしまいそうなとき、私は意図的にそれが単なる遊びだと思うことにしている。そうすると気持ちが緩み、ああそっか、失敗してもやり直せばいいんだ、と心が大きくなり、しばらくするとスルスルと何かが出てきたりする。
それでも全く出てこないときは、思い切って何の用もなく、関係もない作品作りに没頭する。「これは遊びだ」と暗示するのではなく、全てをほっぽり投げて本当に別の遊びを始めてしまうのである。脳はこの切り替えが好きみたいで、しばらく忘れさせてくれてありがとうと言わんばかりに、その後全く意外なところから求めていた答えを導いてくれたりする。この方法でうまく行かなかったことはない。
「遊び」と敢えてキーワードを意識することが良いみたいで、途端に自分の中の大らかさや幼稚さ、ユーモアや無責任さが大集結してのびのびと何かを展開する。このしょうもなさが、探し求めていたアイディアの片鱗であったりするのである。
(1月19日筆・15分)

ミヒャエル・エンデによる「遊び」の考察
田村都志夫「ものがたりの余白~エンデが最後に残したこと」(岩波新書, 2000年, p. 39-45)
zuihitsu・・・前日自分に課したキーワードをお題に、最低400字(原稿用紙1枚)で書く練習をしているものの一部出し